みなさん、こんにちは。マンションアナリストのらえもんです。
今回は、晴海の歴史について、港湾施設としての時代から、今日の晴海フラッグ誕生に至るまでを振り返ってみたいと思います。この地が長年にわたって「世界への窓口」として発展してきた歴史は、とても興味深いものがあるんです。
もともと、晴海は東京湾をきちんとした深さを持つ港湾にするべく、澪浚した時に出た海土を埋め立ててできた土地でした。土地の造成後、しばらくして、東京で万博を開こうという機運が生まれた時に候補となったのが、ここ晴海でした。「紀元2600年記念日本万国博覧会」(幻の東京万博、1940年)!皆さんがよくご存知の勝鬨橋も、この万博開催に向けて整備された一つでした。当時の計画図を見ると、まさに今の晴海と豊洲に、壮大な博覧会場鳥瞰図が描かれています。残念ながら戦争の影響で万博は中止になってしまいましたが、この時の構想が、その後の晴海の発展に大きな影響を与えることになります。
戦後、1950年代になると晴海は国際的な展示会の中心地として生まれ変わります。
東京国際見本市会場が設置され、東京ビッグサイトができるまでの長きにわたり、日本の展示会産業の中心として賑わいました。東京モーターショーもここから始まっています。晴海フラッグの大部分の土地は、巨大な駐車場として使われていたことが、航空写真を見るとわかります。特に1960年代には、日本の高度経済成長期を支える重要な展示会の舞台として、多くの実績を残しました!コミケも元々は晴海から始まっています。
さらに1991年には晴海客船ターミナルが完成!ほぼ同時期に策定された豊洲・晴海開発整備計画では、ターミナルの後背地を「国際交流のためのイベント広場」として整備する計画も盛り込まれていました。この時期、晴海は海からの東京の玄関口として、新たな役割を担うことになりました(少なくとも計画上は…!)。東京ビッグサイトに移ったあとの東京国際見本市会場跡地は、豪華客船が寄港するたびに、多くの観光客でにぎわうことを想定していました。残念ながら皆さんもご存知の通り、こんな立派なイベント広場は建てられることはありませんでした…この整備イメージの通りできたのは客船ターミナルの他にはホテルくらいですね。
その後も晴海は、オリンピック招致でも重要な役割を果たします。
あまり知られていませんが、2016年東京オリンピック招致では、なんとメインスタジアムの建設地として構想されていたんです!当時の計画では、海に面した立地を活かした壮大なスタジアムが描かれていました(このときは残念ながら招致に失敗)。なお、選手村は現在の有明アーバンパークと体操競技場に作られる計画となっていました。この時は3位という結果でしたが、落選した原因のひとつに「選手村が小さすぎる」という意見があったとかなかったとか。
そして2020年東京オリンピック・パラリンピックでは、世界中のアスリートが暮らす選手村として、また新しい役割を担うことになりました。
そして現在、オリンピック・パラリンピックのレガシーとして生まれ変わった晴海フラッグ。80年以上にわたって「世界に開かれた場所」として発展してきた歴史が、いまも街の中に息づいています。
特筆すべきは、晴海フラッグが未来の技術実証の場としても機能していることです。例えば、街区全体に整備された水素インフラ。これは、将来の水素社会を見据えた東京のショーケースとしての役割を担っています。まさに、かつての見本市会場が果たしていた「最先端の紹介」という役割が、形を変えて継承されているんですね。
海に面した立地、充実した共用施設、そして何より多様な人々が集まるコミュニティ。これらは偶然ではなく、晴海という土地が長年培ってきた「国際性」が形を変えて継承された結果なのかもしれません。
これからも晴海フラッグは、新しい時代の「国際交流の拠点」として発展していくことでしょう。この歴史ある土地で、また新たな物語が紡がれていくのが楽しみですね。